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戦争中のことについて両親に語ってもらいました!

明日は、8月15日。

 

戦争中、私の両親はまだ小さな子供でした。戦争中のことについて覚えていることを話してもらいました。

 

父は1935年生まれ。母は1940年生まれ。以下はその時のインタビューの内容です。

 

父:1935年埼玉県さいたま区生まれ

 太平洋戦争の最後の年は、俺は小学生で。

 

3月に運動会があってね、200メートルのトラックが校庭にあったんだったんだけど、トラックの真ん中には兵隊さんのために米とか野菜とか育てて、トラックの向こう側を走る生徒は頭しか見えないんだよ。

 

2時か3時ごろだったかなあ、運動会中に空襲警報がなって。俺らは大丈夫だったんだけど、次の日の朝ごはんの時に、東京ですごい空襲があったって親父が言ってたな。

 

その頃、俺らの家は部屋を貸してたんだよ。空襲で家が焼けちゃって逃げてきた人がたくさんいたからね。だから何人かに貸してたなあ。

 

東京に住んでた人はみんな食べ物がなかったから、着物とか家具を大宮とか田舎に持ってきて米とか野菜と交換してた。特に米ね。大宮駅はそう人でごった返しててさ。

 

駅には荷物検査をする軍の警察が来るんだよ。その頃、米は配給でしかもらえないことになってたから、米を持ってのが見つかると、軍の警察に取り上げられて、罰金を払わされるんだよね。

 

駅に警察がくるってわかると、みんな罰金なんか払いたくないし、米を取り上げられるなんてバカらしいから、みんな急いで米を電車の窓から線路に投げ捨てているのを何回も見たことがあるよ。

 

あとは…学校でウサギとか、鶏とかいろんな動物を飼育してたんだけど、なんせ人間でさえ食べ物がないんだから、動物にあげる食べ物もないんだよな。

 

ある時さ、学校の校庭に生えてた草を採って先生のところに持って行ったらさ、それは草じゃなくて兵隊さんのために育ててた稲だったんだよ。だから先生にものすごく叱られたんだ。「稲だってわからなかったです。草だと思ったんです。」って言ったんだけど、先生は「校庭で稲を育ててるはみんな知ってるだろ。なんで草と稲の区別がつかないんだ、お前は!」ってまた怒られてさ。

わからなかったというのはただの言い訳。だってその頃には校庭に草一本も生えてなかったんだからさ…。

 

戦後すぐ、たくさんのアメリカ兵が日本にきて、家の近所でもたくさんみかけてさ。誰も外人なんて見たことなかったら、物珍しくてね。

 

ジープとかトラックを運転してて、ガムとかチョコレートとか、投げるんだよ。そうするとさ、俺らは走ってそれを拾って…そういうのを見て、アメリカ兵たちは笑ってて、でも俺らはもう腹が減ってたからさ。

チューインガムを拾うと、アメリカ兵達みたいにチューインガムを噛む真似をしてさ。

 

そのうち、いつどこにアメリカ兵が現れるか分かるようになって、今度は通りで待つようになったんだよ。

 

アメリカ兵たちがチョコレートとかキャンディーとかいろんな食べ物を投げると、俺らは走って行ってがんばってたくさん拾ってね。で、次の日何をいくつ拾ったか友達と競い合ったりしてね。今まで食べてたのより、ずっと美味しいから大事に大事に食べたなあ。

 

母:1940年東京北区生まれ

(*おじいちゃんとは、私から見た時のおじいちゃん。母のお父さんのことです。また母がお父さんと言っているのも、母のお父さんのことです。)

 

戦争中は、2歳から4歳ぐらいのときだったから戦争のことはあまり覚えてないけど…お父さんとお母さんにとっては大変だったと思うよ。

 

一番覚えているのはね、茨城に住んでいたおじちゃん、おばちゃんの家に疎開した時のことかな。あれは確か3歳だったかなあ。その頃から、東京じゃ、空襲が激しくなってきて危険だったのね。

 

いとことは毎日遊べて楽しかったけど、寂しかったなあ。だって初めてお父さん、お母さんと離れて暮らしたんだから。

 

時々、おじいちゃんが会いに来てくれてね。一緒に散歩したり、折り紙とかおはじきとかして遊んでくれたの。

 

これは戦争が終わった後、私が3年生の時かな、おじいちゃんに聞いた話なんだけどね。おじいちゃんはお医者さんだったでしょ。国立がんセンターで働いていたんだけど、それが軍の病院になってね、毎日電車で通ってたんだって。でもいつアメリカ軍が電車とか病院に爆弾を落とすか心配だったって言ってた。それに、私の疎開先のそばには海軍の訓練場所があったから、そこにアメリカ軍が爆弾を落とすんじゃないかとか心配してたって。おじいちゃんは疎開先に来るたびに、これが私と会えるのが最後かもしれないって思ってたって。

 

そうね、小さかったからあまり戦争の時の記憶はないけど、きっと両親は毎日毎日心配だっただろうなあ。

 

両親の話を聞いて

両親の子供の頃の話を聞いて思ったことは、当たり前だけど、父も母も子供の頃があったんだ…とちょっと驚きました。

 

この戦争のせいで世界中で多くの人が亡くなったにも関わらず、両親が生き残ってくれたおかげで、私が存在できているという奇跡に身が引き締まる思いもしました。

 

さらに、父が小学生の時に初めて出会ったアメリカ軍の話を聞いて、アメリカ人である私の夫を快く迎えてくれて、夫が家を訪れるたびに楽しく一緒にビールを美味しそうに飲んでいる父の姿を見ると、なんかこの人すごいなと思ったりもします。

 

両親に子供の頃の戦争体験を聞くきっかけ

このような機会を与えてくれたのは、実は夫のお父さん、義理の父でした。

 

義理の父は私の母と同じ年、1940年にアメリカで生まれました。

 

ほとんどの戦争の話は大人達によるものだったため、その頃の子供たちはどのように過ごしていたのかと思い、義理の父は友人達にインタビューをしていたのです。その流れで、私の両親の話も聞いてみたいというのがきっかけでした。

 

両親には日本語でインタビューをし、それを英語にしてメールで送ったところ「なんか…もう涙が止まらなかったよ」という感想をいただきました。

 

アメリカ人と日本人が普通に結婚できること。その家族同士が笑顔で「乾杯!」ができること。お互いの戦争体験を共有し、涙すること…75年前にはこんな関係を持つことはあり得なかった。これが「平和」ということなのでしょう。ありがたいことです。