ひとったび -人と旅と物語-

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Condé Nast Traveler世界のレストラントップ10に選ばれたスピリチュアルなレストラン「Spice Route」

ザ・インペリアルホテルにある「Spice Route」は南インドケララから、スリランカ、タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシアまでの料理とスパイスが満喫できるレストランです。

  

レストランに一歩足を踏み入れると、古い遺跡かお寺の中に迷い込んだような、壁画や装飾、銅像に圧倒されます。

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料理&ドリンク

ざっくりですが、料理はどれも美味しいです。

個人的なお薦めは…

Cha Gio(1000ルピー):ベトナムの揚げ春巻き

Som Tum Chae(950ルピー):タイのパパイヤサラダ

 

飲み物はワイン!

インドでは輸入物のアルコール類は高い関税がかけられているため、値段が非常に高いです。が、ここのワインのセレクト、質はとてもとてもいいので、特別な日ならウェイターさんと相談しながら注文してみてください。料理にあった美味しいワインをすすめてくれます。

 

ちなみにここのワイングラス、見たことないくらいステムが長く、立派なワイングラスです。ワインを飲まなくても、頼めばこのワイングラスに入れてくれます。

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レストランのデザイン&装飾

ケララ(インドの南西)にあった古い寺院の貴重な歴史的建造物や、野菜や植物から採った染料で描かれた壁画によって「人の一生」をテーマにつくられたレストラン。ラジーブ・セスさんによって約7年の歳月をかけて完成した、スピリチュアルな空間兼レストランと言っても過言ではありません。

 

例えば…

  • 出入り口

誰もがたった1人でこの世に誕生し、去ってゆく…ということからレストランの出入り口は人が1人通れるくらいの狭い幅になっています。

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  • 欲望のセクション:

全ての人間が持つ物質への欲望、性欲などが「カーマスートラ」を元に描かれています。天井はケララの古い寺院にあったもので「解脱・自由・解放」が描かれていますが、それを悟るのは自分自身ということから、天井には梁が巡らされており全体像がはっきり見えなくなっています。

 

  • 愛のセクション:

ここは2人用のテーブルだけが置かれています。愛する人と食事をしながら絆を深める席です。この席はよくプロポーズするときに使われるそうです。

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ウェイターさんがこんな話をしてくれました。

 

ある日、ある男性がプロポーズするのに、デザートのケーキの中に婚約指輪を入れてサプライズをするという計画をたてたそうです。が、食べても食べても婚約指輪が見つからず、キッチンに持ち帰り何人かで探したところ、やっと見つかったのだそうです。結果的にはプロポーズは成功しました。

 

  • 先祖のセクション:

この場所からはレストラン全体が見渡せるようになっています。こちらはチェンマイ(タイ)のある寺院の盲目の僧侶がこのレストランのために掘ったそうです。私たちは先祖によっていつも見守れられているんだよというメッセージが込められているそうです。

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この彫刻の前には一枚の鏡がかかっていて、のぞけばもちろん自分の顔が映されます。自分の人生をどのように生きてきたのか、声に出さなくても思ったことや考えたことを全て知っているのは結局、自分自身であるということ。的を得すぎた説明で鳥肌がたってしまいました。

 

  • その他

キッチンから料理を運ぶ際に使うドアの横にはヒンドユ—教の「食に満たされた女神(豊穣の女神)」のアンナプールナーの女神が描かれています。右手にスプーン、左手にお米?を持ち、いかにも食いしん坊という感じの女神です。お客さんたちがSpice Routeの食事で幸せになりますようにと願いながら、すべてのウェイターさんがこの女神の前を通って行くのだそうです。

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レストランの方にミニツアーをお願いすれば、素敵なお話が聞けて、一層このレストランの深さを理解できます。

 

インド流「おもてなし」?

インドの高級ホテル、レストランの接客は驚くほど質が高いです。「Spice Route」も例外ではありません。

お客さん達への気配りがすばらしいのにも関わらず、一つも気取ったところがなく、とても心地よい気分にさせてくる。どんな教育を受けているのかといつも感心してしまいます。

 

前回、インドに遊びに来た友人を連れて「Spice Route」を訪れた時、食事の最後にサプライズで「Welcome To Spice Route, Dxxxx」と書かれたとても美味しいダークチョコレートケーキを出してくれました。

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ウェイターさんは「君たちにとって特別なゲストなら、私たちとっても特別なゲストだからね。」と。嬉しいですね。

 

ところで、このレストランにはウェイターさんの中に日本語が話せる方がいるんです。以前神戸で英語を教えていて、日本大好き納豆大好きという方です。「Spice Route」を訪れる機会がありましたら、その方にいろいろ聞いてみてください。きっと面白い、そして心を清めてくれるお話が聞けますよ。

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予約サイト:https://theimperialindia.com/restaurant-menu/the-spice-route/

 

営業時間:

ランチ   12:30p.m.-2:45p.m.

ディナー  7:00p.m.-11:45p.m.

レストラン予約:011-41116605

デリーの近代歴史博物館&アートギャラリーとしても楽しめるホテル 〜ザ・インペリアルホテル〜

ザ・インペリアルホテルは、インドの首都デリーの中心部、コーンノートプレースにありながら、門をくぐると100年前にタイムトリップしたような優雅で落ちついたホテルです。 

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               wikimapia.comより
 

このホテルは1931年に高級ホテルとして建てられ、1936年にオープンしました。インドがまだイギリスの植民地だった頃です。

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               greavesindia.comより

 

ホテル内の装飾はLadyWillingdonさんによって行われました。ファブリックはヨーロッパ産、大理石の床はイタリア産、シャンデリアはオーストリアチーク材ブータン産、そして絨毯はペルシア産…と、インドに持ってこれたということにただただ驚くばかりです。

 

ホテルの床はいつもピカピカ。ホテルスタッフの方曰く、床の磨き度が測れるドイツ製の機械で1日2、3回チェックしているのだそうです。

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ザ・インペラルホテルには5000点以上にものぼる絵画、彫刻などが飾られています。

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こちらは1911年にジョージ5世がイギリス領インド帝国インド皇帝としてデリーでの戴冠式に訪れた時の絵です。レッドフォート(世界遺産)をバックに、軍服を来たインド兵達に警備されながら、盛装した王族達が同じく盛装された象に乗り行進している様子が描かれています。たった100年前なのにこんなことが行われていたんですね。

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もう一つ、必見なのが「1911 Restaurant」にある白い大理石のテーブルです。ちなみに、1911という数字は当時のインドを植民地化していたイギリス政府がインドの首都をコルカタカルカッタ)からデリーに移した年です。

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イギリスからの独立に向けて、この席でインドの歴史を動かした重要人物達が毎朝朝食を取りながら議論をしていました。その人物達とは…

 

  • マハトマ・ガンディー(インドの独立の父。ガンジーは大雨が降っても、夏の暑い日でも、ホテルを訪れここに座って朝食を食べていたとのこと。)

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などなど…。

 

この3名の名前を見ただけでも、毎日行われていた議論の重みのすごさが感じられます。このテーブルは今でも同じ場所に置かれており、ここでの食事を取るのも可能だそうです。

 

ザ・インペリアルホテルには他にも素敵なバーやレストランがありますが、私がぜひぜひご紹介したのは7年の歳月をかけて完成されたという「Spice Route」というレストランです。

 

参考サイト

 

戦争中のことについて両親に語ってもらいました!

明日は、8月15日。

 

戦争中、私の両親はまだ小さな子供でした。戦争中のことについて覚えていることを話してもらいました。

 

父は1935年生まれ。母は1940年生まれ。以下はその時のインタビューの内容です。

 

父:1935年埼玉県さいたま区生まれ

 太平洋戦争の最後の年は、俺は小学生で。

 

3月に運動会があってね、200メートルのトラックが校庭にあったんだったんだけど、トラックの真ん中には兵隊さんのために米とか野菜とか育てて、トラックの向こう側を走る生徒は頭しか見えないんだよ。

 

2時か3時ごろだったかなあ、運動会中に空襲警報がなって。俺らは大丈夫だったんだけど、次の日の朝ごはんの時に、東京ですごい空襲があったって親父が言ってたな。

 

その頃、俺らの家は部屋を貸してたんだよ。空襲で家が焼けちゃって逃げてきた人がたくさんいたからね。だから何人かに貸してたなあ。

 

東京に住んでた人はみんな食べ物がなかったから、着物とか家具を大宮とか田舎に持ってきて米とか野菜と交換してた。特に米ね。大宮駅はそう人でごった返しててさ。

 

駅には荷物検査をする軍の警察が来るんだよ。その頃、米は配給でしかもらえないことになってたから、米を持ってのが見つかると、軍の警察に取り上げられて、罰金を払わされるんだよね。

 

駅に警察がくるってわかると、みんな罰金なんか払いたくないし、米を取り上げられるなんてバカらしいから、みんな急いで米を電車の窓から線路に投げ捨てているのを何回も見たことがあるよ。

 

あとは…学校でウサギとか、鶏とかいろんな動物を飼育してたんだけど、なんせ人間でさえ食べ物がないんだから、動物にあげる食べ物もないんだよな。

 

ある時さ、学校の校庭に生えてた草を採って先生のところに持って行ったらさ、それは草じゃなくて兵隊さんのために育ててた稲だったんだよ。だから先生にものすごく叱られたんだ。「稲だってわからなかったです。草だと思ったんです。」って言ったんだけど、先生は「校庭で稲を育ててるはみんな知ってるだろ。なんで草と稲の区別がつかないんだ、お前は!」ってまた怒られてさ。

わからなかったというのはただの言い訳。だってその頃には校庭に草一本も生えてなかったんだからさ…。

 

戦後すぐ、たくさんのアメリカ兵が日本にきて、家の近所でもたくさんみかけてさ。誰も外人なんて見たことなかったら、物珍しくてね。

 

ジープとかトラックを運転してて、ガムとかチョコレートとか、投げるんだよ。そうするとさ、俺らは走ってそれを拾って…そういうのを見て、アメリカ兵たちは笑ってて、でも俺らはもう腹が減ってたからさ。

チューインガムを拾うと、アメリカ兵達みたいにチューインガムを噛む真似をしてさ。

 

そのうち、いつどこにアメリカ兵が現れるか分かるようになって、今度は通りで待つようになったんだよ。

 

アメリカ兵たちがチョコレートとかキャンディーとかいろんな食べ物を投げると、俺らは走って行ってがんばってたくさん拾ってね。で、次の日何をいくつ拾ったか友達と競い合ったりしてね。今まで食べてたのより、ずっと美味しいから大事に大事に食べたなあ。

 

母:1940年東京北区生まれ

(*おじいちゃんとは、私から見た時のおじいちゃん。母のお父さんのことです。また母がお父さんと言っているのも、母のお父さんのことです。)

 

戦争中は、2歳から4歳ぐらいのときだったから戦争のことはあまり覚えてないけど…お父さんとお母さんにとっては大変だったと思うよ。

 

一番覚えているのはね、茨城に住んでいたおじちゃん、おばちゃんの家に疎開した時のことかな。あれは確か3歳だったかなあ。その頃から、東京じゃ、空襲が激しくなってきて危険だったのね。

 

いとことは毎日遊べて楽しかったけど、寂しかったなあ。だって初めてお父さん、お母さんと離れて暮らしたんだから。

 

時々、おじいちゃんが会いに来てくれてね。一緒に散歩したり、折り紙とかおはじきとかして遊んでくれたの。

 

これは戦争が終わった後、私が3年生の時かな、おじいちゃんに聞いた話なんだけどね。おじいちゃんはお医者さんだったでしょ。国立がんセンターで働いていたんだけど、それが軍の病院になってね、毎日電車で通ってたんだって。でもいつアメリカ軍が電車とか病院に爆弾を落とすか心配だったって言ってた。それに、私の疎開先のそばには海軍の訓練場所があったから、そこにアメリカ軍が爆弾を落とすんじゃないかとか心配してたって。おじいちゃんは疎開先に来るたびに、これが私と会えるのが最後かもしれないって思ってたって。

 

そうね、小さかったからあまり戦争の時の記憶はないけど、きっと両親は毎日毎日心配だっただろうなあ。

 

両親の話を聞いて

両親の子供の頃の話を聞いて思ったことは、当たり前だけど、父も母も子供の頃があったんだ…とちょっと驚きました。

 

この戦争のせいで世界中で多くの人が亡くなったにも関わらず、両親が生き残ってくれたおかげで、私が存在できているという奇跡に身が引き締まる思いもしました。

 

さらに、父が小学生の時に初めて出会ったアメリカ軍の話を聞いて、アメリカ人である私の夫を快く迎えてくれて、夫が家を訪れるたびに楽しく一緒にビールを美味しそうに飲んでいる父の姿を見ると、なんかこの人すごいなと思ったりもします。

 

両親に子供の頃の戦争体験を聞くきっかけ

このような機会を与えてくれたのは、実は夫のお父さん、義理の父でした。

 

義理の父は私の母と同じ年、1940年にアメリカで生まれました。

 

ほとんどの戦争の話は大人達によるものだったため、その頃の子供たちはどのように過ごしていたのかと思い、義理の父は友人達にインタビューをしていたのです。その流れで、私の両親の話も聞いてみたいというのがきっかけでした。

 

両親には日本語でインタビューをし、それを英語にしてメールで送ったところ「なんか…もう涙が止まらなかったよ」という感想をいただきました。

 

アメリカ人と日本人が普通に結婚できること。その家族同士が笑顔で「乾杯!」ができること。お互いの戦争体験を共有し、涙すること…75年前にはこんな関係を持つことはあり得なかった。これが「平和」ということなのでしょう。ありがたいことです。

 

 

Helsinki Fashion Week 2019(ヘルシンキファッションウェイーク)− 100%サステイナブルファッション

  • Wife Carrying World Championships (妻背負い大会)

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  • World Cell Phone Throwing Championships(携帯電話投げ大会:チャンピオンは新しい携帯電話がもらえるらしい)
  • Mosquito Swatting Championships(蚊取り世界大会—ハエ叩きのような物を使って5分間で何匹の蚊を殺せるかを競う大会らしい)
  • Air Guitar World Championships(エアーギター世界大会)

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このような大会を開催しているおもしろい国があります。どの国だかわかりますか? 

答えは…フィンランド

 

日本ではノルウェースウェーデンデンマークフィンランドの国々を「北欧」と一括りにしてしまう傾向がありますが、(少なくとも)私の中では、特にフィンランド人はとても寡黙。特に話すことがなければ沈黙も恐れない。それでいて話してみるとユニークな発想をする国民が多い、面白い国というイメージです。

 

Helskink Fashion Week 2019

そんなフィンランドヘルシンキで7月19日から22日まで「ヘルシンキファッションウィーク(HFW)2019」が開催されました。

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テーマは「100%サステイナブルファッション」。

 

参加したデザイナーはフィンランド国内に限らず、アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカ、南米と国際色豊か。

 

ファッション業界に革命を起こそうとしている、特に小ブランドの新しいデザイナー達が、他企業、科学者、政治団体などとパートナーを組むことで、環境に優しい素材の開発、リユースやアップサイクルの技術開発、そして労働環境における透明性(トランスペアレンシー)の促進などができるような機会をもてるようにというのが主催者側の目的です。

 

例えば、今回注目されたのがA.BCH (オーストラリアのメルボルン)。

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A.BCHは生物分解、再利用が可能な素材を使っています。また、「リサイクルプログラム」というのを行なっており、着なくなったA.BCHの服を簡単な手続きをするだけで送り返すことができ、その度に$10のクーポンがもらうことができます。戻ってきた服は次の商品の一部として使われたり、補正をして再度販売し、その利益をファッション革命団体に寄付したりしています。

 

ヘルシンキファッションウィーク中に行われたトークパネルでは「気候変動や環境、工場で働く待遇改善のために、わたしたには何ができるのか」というテーマで多くの人が真剣に話し合われたそうです。

 

さらにさらにファッションウィークのHPを見ると入場者に年齢制限がないのです。ですからもちろん子供も入場可(10歳以下は無料)。将来賢い消費者やデザイナーを育てるのに、このようなユニークなファッションウィークの雰囲気、サステイナブルファッションやその概念に触れられるとてもいい機会なのではないでしょうか。

 

世界中で様々なファンションウィークが開かれていますが、こういう明確なテーマを持ったユニークなファッションウィークは今の所ヘルシンキだけではないでしょうか。

 

ただ、これは年に一回開かれるヘルシンキファッションウィークだけでないのです。

 

Lovia(ロビア)

PhiotradeのビジネスパートナーであるLovia(ヘルシンキを拠点)でも大手家具店が出す余革、鮭の革、リサイクル素材などを原料としてファッショナブルなバッグやアクセサリーを作っているブランドです。       

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      (レザーソファーの余革で作られたショルダーバッグ)

 

例えば、あなたが購入したLoviaの商品一つ一つにナンバリングがされており、それによって素材は何か、誰が作ったのかなどすべての情報をトラッキングができるシステムになっています。 

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   (鮭の皮で作られたポーチ:魚の匂いはしませんのでご安心を)

 

LoviaのHPの“ABOUT-Roots”のページを開くと、まず目に飛び込んでくるのが

 

   “A BAG CAN’T CHANGE THE WORLD. BUT YOU CAN.”

  (バッグは世界を変えられません。変えられるのはあなたです。)

 

短い文章ですが、とても力強いメッセージです。

 

私たちにできることは何か

どこの国が生産したから安心、いい製品だという前に、商品を手に取った時、

-環境に配慮しているか 

-誰が作っているのか

-正しい情報を消費者に共有しているかどうか

をちょっと考える時間を持つようにすることだと思います。

 

そんな時間はないし、ファストファッションが好き!という方ももちろんいるでしょう。

 

しかし、上記に記したことを少しずつでも行動する消費者が増えれば増えるほど、ファストファッションの企業も重い腰を上げなければならなくなる時代がきっとくると思います。

 

世界を変えることができるのは物でなく、企業だけでもなく、まずは「私たち」なんです。

 

参考サイト:

 

「チェルノブイリ/Chernobyl」−第4話〜第5話裏話

ここでは「チェルノブイリ(原題)/Chernobyl」のミニシリーズ第4話から第5話について述べていきます。元になっているのは脚本家のクレイグ・メイジンとNPRのピーター・スコットのトークです。

 

第4話

  • 一番印象に残っているシーン

牛舎で乳搾りをしている老婆に若い兵士は今すぐに避難することを促します。しかしこの老婆は断固として避難することを拒否します。

 

兵士:「村中の住民が避難しているんだ。ここは安全じゃない。空気中に放射能

   蔓延しているんだ。」

老婆:「私は生まれてからずっとこの土地で、この家でずっと過ごしてきたんだよ。…

   82歳になる私に「安全」なんて関係ないよ。」

兵士:「住民を避難させることが私の仕事なんだ。問題を起こさないでくれ。」

老婆:「問題?…私が12歳の時、ロシア革命が起こった。あんたみたいな兵士が来て、

   立退けと言いに来た。私は断った。次はスターリン、そして大飢饉、ホロドモー

。両親、2人の兄弟も死んだ。私たち残った家族に対し、立退けといった。私

   は断った。そして第二次世界大戦…ドイツ兵、ソ連兵、たくさんの兵隊たちがこ

   こを通っていった。戦場にいった兄弟は戻ってこなかった。でも、私はずっとこ

   こに住み続けた。多くのことを見てきたんだよ。だから見えない敵から逃げるた

   めに、ここを立ち退かなければいけないってどういう意味なんだ。私はいやだ 

   ね。」

 

老婆が(放射能に汚染されて飲めない)乳を絞りつづけていると、兵士はその乳が入っているバケツを取り上げ全部捨ててします。しかし老婆はまたその乳搾りを始めます。

 

老婆の後ろで兵士が銃を構えます。きっとこの老婆を銃で撃ち殺すに違いない…と思ったのですが、撃ち殺されたのは牛でした。

 

ソビエトではどんな立場にあってもどんな人でも、第二次世界大戦の経験を話す老人には敬意を払うという文化が非常に根強く残っていたそうです。だからこの場面で若い兵士は老婆を銃で撃つことはあり得なかったと脚本家は言っていました。この老婆は避難しました。

 

ちなみに銃で撃たれた牛は本物ではなく、作り物のスタントの牛だそうです。

 

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                wikipediaより

 

ウクライナの気候は温暖で、16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯と呼ばれてきました。

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                                    worldatlas.comより

 

地理的には西に東ヨーロッパ、南には黒海があり陸続きでトルコなどアジアへとつながる場所に位置しています。そして東にはロシアが。このため様々な民族が到来し、通過していきました。ナポレオンやヒットラーがロシアへ侵攻する際、まず通過するのがウクライナなのです。その度に多くの人々が避難を強いられてきたという歴史があります。

 

老婆が言っていたポロドモールとは、1930年代にスターリンウクライナ人に対し、計画的に行ったといわれている人工的大飢饉のことです。ホロコーストポル・ポト派による虐殺、ルワンダ虐殺等と並んで20世紀の最大の悲劇の一つだともいわれています。

 

家畜や肥沃な農地を持つウクライナ人たちは、政府によって農業集団化への協力を余儀なくされます。収穫に課せられた収穫高が困難な上に、外貨獲得のために収穫された食物のほとんどは輸入に回され続けたため(飢餓輸出)、政府の政策に反対する農民たちは強制移住させられました。それによって生産量が減少、深刻な食糧不足から大飢饉が起こり、400万人から1450万人が死亡したといわれています。

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     ポロドモールによる飢死者とされる写真 File:Famine Kharkov 1933.jpg

                                                        wikipediaより

 

このような辛い歴史の中を生きてきたこの老婆が自分が生まれ育った場所からの退去を拒否するシーンは老婆の力強さ、威厳、家を離れなければならなくないことへの悲しさ、辛さが伝わってくる素晴らしいシーンだと思います。

 

5話

1986年4月26日に何が起こっていたのか、どうして起こってしまったのかが明らかにされていきます。このエピソードではウィーンで行われたIAEA会議の内容はあまり述べられていません。

 

チェルノブイリ原子力事故を隠蔽できなくなった旧ソ連政府は世界に向けて事故について説明をするためにウィーンを訪れます。その時の代表者が「チェルノブイリ」の主人公である原子物理学者ヴァレリー・レガソフでした。会議開催中、レガソフが西側に逃亡しないように、政府によって非常に厳しく監視されていたそうです。

 

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                                          vanityfair.comより

 

1986年8月にオーストリア、ウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ事故専門会議が開かれました。

 

当時の旧ソビエト連邦の国民が西側の国を訪れることが非常に珍しかったことや、西側諸国の誰もが旧ソ連の科学者のスピーチを聞いたことがなかったため、この会議は歴史的な会議であったといっても過言ではありません。それに加え、原子物理学者ヴァレリー・レガソフは5時間もかけて事故に関する多くの事実を認めた上で、非常に丁寧にチェルノブイリの事故について説明しました。

ソビエト連邦原発原子炉の設計にミスがあったこと、それを国が隠していたこと以外は…。

 

これによって、レガソフの原発事故報告は西側の誰もが旧ソビエト連邦の科学者を信じるに値すると評価され、その後取り上げられてしまいますが、KGBからも「英雄」の称号が与えられました。

 

この裁判は原発事故を起こしたチェルノブイル原子力発電所4号炉から20キロ離れた文化センターで行われました。実際の裁判にはレガソフは出廷していません。大事故についての説明も他の人が行い、しかも何週間にもかけて行われた、はっきりいってつまらない裁判だったそうです。

 

脚本家のクレイグ・メイジンは、この裁判のシーンでレガソフ自身にあの夜、一体何が起こったのかを説明させることでドラマのクライマックスを迎えたかったのだそうです。ちなみにレガソフが行った説明は全て事実です。

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                                                        THE IRISH TIMESより
 

クレイグ・メイジンはインタビューの最後にメッセージを残しています。

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                                                  Los Angeles Timesより

 

人間は生きていく上で何らかの嘘をつかなければならない時があります。しかし、真実を消滅するためにつかれた「明らかな嘘」に対しては、真っ向から戦う勇気をもたなければならなりません。この「チェルノブイリ(原題)/Chernobyl」のストーリーを私の人生の後でも先でもなく“今”このように語ることは“現代の社会”に大きな意義があるはずだと信じています。

 

データの改ざん、フェイクニュース、記録や記憶があるのに無いと言ったり、捨ててしまったり…。慣れてしまってはいけないことです。心に響く重いメッセージです。

 

参考サイト:

 

「チェルノブイリ/Chernobyl」−第1話〜第3話裏話

ここでは「チェルノブイリ(原題)/Chernobyl」のミニシリーズ第1話から第3話について述べていきます。元になっているのは脚本家のクレイグ・メイジンとNPRのピーター・スコットのトークです。

 

第一話

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                  wikipediaより

プリピャチという街はチェルノブイリ原子力発電所で働く従業員、その家族が住む街でした。市民の平均年齢は26歳!政府の手厚いサポートがあり理想の街でした。

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          エレベーター付きの高層マンション(wikipediaより)

 

公園や緑が多く、当時では珍しく屋内プールもありました。

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      事故後放置されたままの屋内プール (wikipediaより)

 

また他の街や村と違って、スーパーの棚にはきちんと商品が並び、物を買うのに長い列を作る必要もありませんでした。

原発事故が起こった次の日はとてもいい天気だったそうです。しかし、放射能が飛び交う中を、事故について知らされていない市民たちは、いつものように公園を散歩し、子供たちは学校へ行き、結婚式も行われていたそうです。また、ベランダで日光浴を楽しむ人もいたとか…。実際に撮影に使われた街は旧ソ連であったリトアニアの街で、当時に建てられた建物を使いました。

 

  • 1980年代の旧ソ連の人々の生活、ファッションなどを忠実に再現

当時旧ソ連で使われていた、靴の紐一本からホテルの装飾までを再現することに多くの力を注いだそうです。

第一話の最初の方に、主人公のヴァレリー・レガソフがペットの猫に餌をやるシーンがあります。当初は缶詰のキャットフードから餌を出すというシーンだったのですが、当時の生活を知る人によると、その頃旧ソ連にはペットフードなど存在しなかったそうです。エピソードでは餌はすでに皿にのった状態で出されています。

 

チェルノブイリ原子力発電所には全部で4機の発電所がありました。4号炉が大事故を起こした時、なんとその他の原発は運転を続けていたそうです。理由は旧ソビエト連合の3番目の大都市であるキエフに電気を送り続けなければ人々の生活から経済が破綻してしまう危険性があったからだそうです。2号炉は1991年、1号炉は1996年、そして3号炉は2000年に閉鎖されました。すべて原子炉が完全に解体されるのは2046年から2064年までの間とされています。

 

 第二話

  • 人口5万人ものプリピチャの住人達はどこへ避難したのか

4月27日午後2時、事故から36時間後、約1200台ものバスがキエフからプリピャチにやってきます。

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                   hbo.comより

 

住人達は2、3日で戻ってこられると言われました。持っていくことが許可されたのはスーツケース一つのみでした。しかし、結局住民達はプリピャチには戻ることはできませんでした。何人かの避難民の証言によるとキエフの近くにある冬用のスパリゾートのようなところに一旦避難し、その後、政府が近くに新たに建設した村に移りすんだそうです。そのため、避難者達があちらこちらに散らずにすみました。

 

5月1日は春と労働の祝日、メーデーのパレードが行われる旧ソビエト連邦、現在のロシアで重要な祝日の一つです。1986年ゴルバチョフは毎年行われるこのパレードを中止しませんでした。チェルノブイリから近いキエフミンスクでも官僚も含め子供達によるパレードが行われたそうです。その時はすでに世界中でチェルノブイリの事故が知られており、旧西ドイツでは子供を外で遊ばせることが禁じられていたにも関わらず…。

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                        1986年5月1日メーデーパレード in キエフ(TIME.comより)

 

第3話

  • 実際に存在する人物

消防士と消防士の妻は実際に存在する人物です。

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                                              hbo.comより

 

妻がモスクワの病院を訪れた時、夫の病室を教えてくれた医者がこう聞きます。「あなた妊娠してないでしょ?」と。

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                         express.co.ukより

 

彼女にインタビューをした脚本家のクレイグ曰く、実際に行われた会話は次のようだったと言います。

 

医者:「あなた子供いる?」

妻:「ええ、2人いるわ。」

彼女は嘘をついたのです。

いないと答えれば、放射能を大量に浴びた夫に会うことで一生妊娠できない体になると言われるし、妊娠しているといえば胎児に影響を与えることになり、結局夫に会うことができなくなります。子供が2人いると答えておけば、それ以上子供を産むこともないと思うだろうと考えたため、こう答えたと言っています。

 

当時放射能についての正しい知識を持つ人が少なかったこともありますが、被曝をして苦しんでいる夫を一人で残しておけない、死が近づいている夫と1秒でも長く一緒にいたいという妻の態度は、この番組の中で唯一「愛」が感じられるシーンです。

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参考サイト:

史上最悪の原発事故「チェルノブイリ/Chernobyl」〜怖いですが、最後まで見てください!

高校時代のある日の「倫理」の授業で、教室に入ってきた先生がいきなりチェルノブイリの事故について語り始めました。爆発事故によって広範囲に撒き散らされた放射能は何百年、何千年も消滅しないこと。授業の前に東京電力に問い合わせ、日本の原子力の安全対策などについていろいろ質問したが、「我々の原発は安全だ」と言い張るだけで満足する回答が得られなかったこと。その時は、なぜこの先生はこんなに興奮しているのだろうと不思議に思ったことを今でも覚えています。

 

1986年4月26日、原発で働く従業員たちが住んでいた街、旧ソビエト連邦のプリピャチ(現ウクライナ)という村で午前1時23分45秒チェルノブイル原子力発電所4号炉の世界最悪の原子力発電所事故が起こりました。

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                hbo.comより

 

HBOで5月から放映されていた「チェルノブイリ(原題)/Chernobyl」は、この大事故を元に作られたドキュメンタリーミニドラマシリーズ(全5話)です。なぜあの大事故が起こってしまったのか、当時の国家体制と事故への対応、その後の状況などが、詳細に描かれています。

           youtu.be

 

監督は「ブレイキング・バッド」や「ウォーキング・デッド」のヨハン・レンク。主人公の旧ソ連原子物理学者ヴァレリー・レガソフを演じたのはジャレッド・ハリス(「マッドマン」「ザ・クラウン」などに出演)。

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                                             ruin my week より

 

この原子物理学者と共に奮闘するのが当時の旧ソ連副首相役のステラン・スカルスガルドです(「グッドウィル・ハンティング」「パイレーツオブカリビアン」「アベンジャー」などに出演)と豪華メンバーです。

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                 ruin my week より

 

第3話まで放映された時点で、アメリカのIMDb(The Internet Movie Data Base )ではテレビ番組史上最高評価で歴代第1位を記録しました。

 

大事故の事実を知るよしもない子供や大人たちが外に出て、まっすぐに天に向かって伸びる青く輝く光(爆発)を「綺麗だね」と眺めながら「死の灰」を浴びる姿がなんとも切ない…。

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                                                             bbc.comより

 

この大事故による莫大な損害が旧ソビエト連邦の崩壊を招いた大きな原因の一つだとも言われています。(1991年旧ソビエト連邦崩壊)

 

部下を脅すことで自分の指示通りに動かそうとする上司。そんな上司の間違いを「間違いだ」と言い返せず、仕方なくその指示に従ってしまう部下。

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                  hbo.comより

 

自分の出世と権力への固持や国の面目を守らなければならないというプレッシャーから生まれる嘘が国家や国民を壊して行く姿は、当時の旧ソビエト連邦だけでなく、現在のどこの国でも、組織でも起こりうることだけに、背筋がぞーっと凍りつきます。

 

バックに流れる静かな不協和音、危険を知らせるセンサーやガンガーカウンタの音がさらに不安と緊張を掻き立てます。

 

チェルノブイリ」の脚本家クレイグ・メイジンは「嘘から起こる多大なる犠牲」が大きなテーマだと述べています。

 

ある事実を隠すために人々が「嘘」をつくことを選択する時、そして人々がその嘘を信じることを選択する時、嘘をつき通そうとする陰謀が蔓延する。当分は平穏にすむが、最後にその嘘によって人々は大きな犠牲を追うはめになる。しかしその犠牲を追うのは嘘をついた本人(達)ではなく、多くの無実な人々なのだ。

 

ということを伝えたかったと述べています。

 

多くの人々が2011年に起こった福島第一の大事故を目撃しました。原発に賛成か反対かは別として、あの時あの内部で何が起こっていたのかという事実はまだ明確にされていません。この「チェルノブイリ」のミニシリーズのように、その事実が描かれるまで30年以上かかるのでしょうか? 

 

日本では2019年秋にスターチャンネルで放送配信されるそうです。

 

次回は脚本家のクレイグ・メイジンとNPRのピーター・スコットのトークから、「チェルノブイリ(原題)/ Chernobyl」の各エピソードの裏話やそれを元に旧ソ連について学んだ興味深い事実について書いていきます。ネタバレもあります。

 

参考サイト: